Brother sun,sister moon.

2011年4月4日月曜日

坪井善明ゼミから学んだこと

知識を学んだというよりは、人間としての生き方を学んだ。

・総合的にものを見ること
政治、経済、社会、技術、文化、歴史、科学、等の全てに通じて、総合的に社会を捉える人間になる。そうでなければ政治は出来ない。

・正しいことは損をする。
正しいことを貫こうとしたら損をする覚悟がなければならない。上に立つ者は損を引き受けなければならない。

・男としての生き方
女性には優しく。お年寄りには手を貸す。行儀の悪い子供は叱れ。
台風にさらされてもどっしりと立った大木のようであれ。

・プレモダン、モダン、ポストモダン
日本はまだプレモダン。日本人はプレモダンが6割、モダンが4割、ポストモダンが1%。まず日本はモダンを経験しなければならない。近代(モダン)は規律訓練=ディシプリンされた主体性のある個人を主役とする。資本主義と親和関係にあり、効率性、投資と効果の関係を重視する。経済においては合理的な選択をする人間が想定されている。ポストモダンには規律訓練を拒否した非主体的な人間もいる。彼らは近代社会のシステム下ではおちこぼれとみなされる。だが、はたして本当にそうだろうか。モダンとポストモダンの狭間に生きる我々の世代の処世術としては、まずはモダンの規律訓練を体得して、自立した個人となり、モダンを突き抜けろ。民間の最前線でバリバリやれ。機能的かつ独創的な人間になれ。近代システムを使いこなせ。その上でポストモダンの新しいシステムをつくれ。

・古典の重要性
思考の訓練として古典名著と呼ばれているものはとりあえず読んでおく。すぐ読める本はすぐ用を為さなくなる。

・いいと思った人の本は全部読む。
ある人間の思想を知ろうと思ったら、著作を断片的に読むだけでは理解したことにはならない。著作全集を読むこと。

・学問の愉しさ
大学1,2年はまともに勉強をしなかった。ゼミに入って初めて学問の仕方を習った。まだ自分は学問の世界の縁に手を懸けた程度の存在だけれども、先生がそこへ導いてくださった。

・知識人としての立ち位置
声なき者達の側に立つこと。

・信念
自分の信念を一貫して持続して持つこと。ふらつくのが人間としてだめ。

・異文化にオープンであること
相手が何人であろうと、偏見を持たずに付き合うこと。

・物事は好き嫌いで判断しない。良い悪いで判断する。
好き嫌いは個人としての感情で判断している。市民社会全体にとって良いか悪いかを公人としての理性によって判断しなければならない。

・自分の強みを伸ばす
この世界を生き抜くためには武器がいる。留学でも何でもいいから1流の世界に飛び込み、自分の力をつけろ。

・勇気
公的な問題に自らを投擲する勇気。物事が思いどうりにいかなくても、批判されても、それでも前に進み続ける勇気。


言うは易し、行うは難し。自分自身はまだ全然実践できていません。それでも、会う度に背筋が伸びる恩師を持てたことは幸せだと思っています。

ゼミ課題書(2010)
田中克彦『ノモンハン戦争 モンゴルと満州国』(岩波新書、2009)
山室信一『キメラ―満洲国の肖像』中公新書(2004)
村上春樹『1Q84 BOOK3』新潮社
松本仁一『アフリカ・レポート』岩波新書(2008)
中島岳志『ガンディーからの“問い”』
バオ・ニン『戦争の悲しみ』
カール・マルクス『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』
帚木蓬生『三たびの海峡』
ベネディクト・アンダーソン『増補 想像の共同体 ナショナリズムの起源と流行』
ハンナ・アレント『人間の条件』
湯浅誠『反貧困』
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』
福沢諭吉『文明論之概略』
丸山真男『「文明論之概略」を読む 上中下』
宮部みゆき『小暮写眞館』
アマルティア・セン『議論好きなインド人』
辺見庸『もの食う人びと』

基礎演習時代の課題書(2009)
辰濃和男『文章の書き方』岩波新書(1994)
マックス・ウェーバー『職業としての学問』
丸山真男『日本の思想』岩波新書
原武史『昭和天皇』岩波新書
堤未果『ルポ貧困大国アメリカ』岩波新書
ニッコロ・マキアヴェッリ『君主論』河島英昭訳 岩波文庫
ルソー『社会契約論』岩波書店
坪井善明『ヴェトナム新時代-「豊かさ」への模索』 岩波新書
福沢諭吉『学問のすすめ』

「一般意志2.0」という言葉で僕が何を言おうとしているか.

『社会契約論』(1762年)でルソーが何を言ってるか.

人民は社会契約をして一般意志を作る.一般意志が政府を選ぶ(政府に権力を与える).

全体意志(will of all)と一般意志(general will)は違う.全ての意志・みんなの意志が全体意志.一般意志をどうやって作るかが近代民主制の根幹.

全体意志は,特殊意志(個人の意志)の和.特殊意志(個人の意志)の和から様々な過不足を抜き取った上での差異の総和が,一般意志.

(僕たちの)目標は一般意志を顕在化させるシステムを作ること.これは政府の改革とは別.

人々は十分にinformationを与えられて,まったくcommunicationをせず,deliberateするとき,一般意志が立ち現れる.information, communication, deliberateという全部のキーワードがこの1文の中に入っている.しかも,deliberateの語源は「重み付ける」.

「十分にinformationが与えられた人間が討議すると一般意志が現れる」と解釈することもできる.けれども,「十分にinformationが与えられた人間がcommunicationなしで重みを付けていく(と一般意志が現れる)」と解釈することもできる.

人民は個人的に契約しているのに,なんとなく一般意志を生成しているように見える.

ニコ動の疑似同期は,みんなが勝手にバラバラに喋っていると,それがなぜか時間を共有しているように感じられる.twitterもみんながひとりごとをバラバラ喋っているのだけれども,なんか議論しているみたいに感じられる.このフィクション感がルソーの一般意志と近い.フィクションとしての議論空間,フィクションとしての集合知.

twitterとGoogleが2つでてきたときに,はじめて世界はルソー化した.

みんなが勝手につぶやいていることはすごく重要.

communicationをとらないで十分にinformationを与えられている各市民がdeliberateすると一般意志が生成する.

第1回ウェブ学会シンポジウム[午後-1], 12-7-2 ksorano on USTREAM. Local News から,東浩紀さんの発言の一部を抜粋・編集 (via takadat)

光市母子殺害事件で妻と子供を失った本村洋さんが一時の気の迷いから勤務先の新日鐵を退社しようと思い立ち辞表を書いた時に上司は次のように述べたという。

『君はこの職場にいる限り私の部下だ。そのあいだ、私は君を守ることができる。裁判はいつかは終わる。一生かかるわけじゃない。その先をどうやって生きていくんだ。君が辞めた瞬間から私は君を守れなくなる。新日鐵という会社には君を置いておくだけのキャパシティはある。勤務地も色々ある。亡くなった奥さんも、ご両親も、君が仕事を続けながら裁判を見守ってゆくことを望んでおられるじゃないのか』

また、次のようにも述べた。
『この職場で働くのが嫌なら辞めてもよい。君は特別な体験をした。社会に対して訴えたいこともあるだろう。でも、君は社会人として発言していってくれ。労働も納税もしない人間が社会に訴えても、それはただの負け犬の遠吠えだ。君は社会人になりなさい』

【なぜ君は絶望と闘えたのか?本村洋の3300日 門田隆将著】

祝島からNYへ 希望の共同体を求めて ・高橋源一郎 ほか/朝日新聞

80歳近いおじいさんが、ひとりで水田を耕している。その水田は、おじいさんのおじいさんが、子孫たちが食べるものに困らぬよう、狭く、急な斜面ばかりの島で30年もかけて石を積み上げて作った棚田だ。子どもたちは都会へ出てゆき、ひとり残されたおじいさんが、それでも米を作るのは、子どもや孫に食べさせるためだ。息が止まるほど美しい空や海に囲まれた水田の傍らでおじいさんが話している。次の代で田んぼはなくなるだろう。耕す者などいなくなるから。 

「田んぼも、もとの原野へ還(かえ)っていく」といって、おじいさんは微笑(ほほえ)む。そして、曲がった腰を伸ばし、立ち上がる。新しい苗代を作るために。 

山口県上関町の原発建設に30年近く反対し続けている祝島(いわいしま)の人たちを描いた映画「祝(ほうり)の島」(〈1〉)の一シーンだ。 

人口500人ほどの小さな島には、ほとんど老人しか残っていない。その多くは一人暮らしの孤老だ。彼らは、なぜ「戦う」のか。彼らが何百年も受け継いできた「善きもの」を、後の世代に残すために、だ。では、その「善きもの」とはなんだろうか。汚染されない海、美しい自然だろうか。そうかもしれない。 

だが、その「善きもの」を受け取るべき若者たちが、もう島には戻って来ないことを、彼らは知っているのである。 

四国電力伊方原発の出力調整実験への反対闘争について記した中島眞一郎(〈2〉)、新潟県巻町(当時)の原発建設の是非をめぐる住民投票について記した成元哲(〈3〉)、そして、祝島について報告した姜誠(〈4〉)。都会から遠く離れた場所での、孤独な「戦い」を記述した彼らの報告を読みながら、ぼくの脳裏には、映画で見た祝島の風景が蘇(よみがえ)った。 

受け取る者などいなくても、彼らは贈り続ける。「戦い」を通じて立ち現れる、大地に根を下ろしたその姿こそが、ひとりで「原野へ還っていく」老人たちから、都会へ去っていった子どもたちへの最後の贈りものであることに、ぼくたちは気づくのである。 

おそらく、世界中に「祝島」はあって、そこから、「若者」たちは「外」へ出てゆくのだ。では、「外」へ出ていった「若者」たちは、どうなったのか。 

「こんなデモは今までに見たことがない」 

9月18日夜、米ウォール街から北に200メートルばかり離れた広場に出向いた津山恵子は、まずこんな風に書いた(〈5〉)。 

「参加者のほとんどは、幼な顔の10代後半から20代前半。団塊の世代や、1960~70年代の反戦運動を経験した世代など、『戦争反対』『自治体予算削減反対』『人種差別反対』などのデモで毎度おなじみの顔は全くない。いや、彼らは今までデモに参加したことすらないのだ」 

世界を震撼(しんかん)させることになる「Occupy Wall Street」デモが始まった翌日の光景だ。いったい、彼らは、なんのためにどこから現れたのか。 

肥田美佐子(〈6〉)は、豊かな社会の中で劇的に広がる「格差」が、彼らを、まったく新しいやり方で、街頭に繰り出させたと報告し、さらに、瀧口範子はリポート(〈7〉)にこう書いている。 

「自然発生的に広がっていったOccupy Wall Streetは、まるで新しい共和国のような様相を呈している。最初は失業者やホームレスたちの集まりと見られていたが、そのうち若者や学生も加わり、整然と組織化されていった。組織といっても、弱肉強食のウォール街の流儀とは正反対のもの。話し合いを通じて、合意形成を図り、それを実践していくというものだ」 

10月6日。『ショック・ドクトリン』の著者で、反グローバリズムの代表的論客、ナオミ・クラインは、彼らが占拠する広場で演説した。そこで、彼女は、一つの「場所」に腰を下ろした、この運動の本質を簡潔に定義している(〈8〉)。 

「あなたたちが居続けるその間だけ、あなたたちは根をのばすことができるのです……あまりにも多くの運動が美しい花々のように咲き、すぐに死に絶えていくのが情報化時代の現実です。なぜなら、それらは土地に根をはっていないからです」 

かけ離れた外見にかかわらず、「祝の島」のおじいさんとニューヨークの街頭の若者に共通するものがある。「一つの場所に根を張ること」だ。そして、そんな空間にだけ、なにかの目的のためではなく、それに参加すること自体が一つの目的でもあるような運動が生まれるのである。 

上野千鶴子は大著『ケアの社会学』で、ケアの対象となる様々な「弱者」たちの運命こそ、来るべき社会が抱える最大の問題であるとし、「共助」の思想の必要性を訴えた(〈9〉)。 

「市場は全域的ではなく、家族は万全ではなく、国家には限界がある」 

背負いきれなくなった市場や家族や国家から、高齢者や障害者を筆頭とした「弱者」たちは、ひとりで放り出される。彼らが人間として生きていける社会は、個人を基礎としたまったく新しい共同性の領域だろう、と上野はいう。 

それは可能なのか。「希望を持ってよい」と上野はいう。震災の中で、人びとは支え合い、分かちあったではないか。 

その共同性への萌芽(ほうが)を、ぼくは、「祝の島」とニューヨークの路上に感じた。ひとごとではない。やがて、ぼくたちもみな老いて「弱者」になるのだから。 

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たかはし・げんいちろう 1951年生まれ。明治学院大学教授。新作小説『恋する原発』の単行本が近日発売予定。写真は鈴木好之撮影。 

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〈1〉纐纈(はなぶさ)あや監督(2010年) 

〈2〉「いかたの闘いと反原発ニューウェーブの論理」(現代思想10月号) 

〈3〉「巻原発住民投票運動の予言」(同) 

〈4〉「マイノリティと反原発」(すばる11月号=連載中) 

〈5〉「立ち上がった『沈黙の世代』の若者」(http://jp.wsj.com/US/node_315373) 

〈6〉「若者の『オープンソース』革命は世界を変えるか」(http://jp.wsj.com/US/Economy/node_320632/?tid=wallstreet) 

〈7〉「全米に広がる格差是正デモの驚くべき組織力」(http://diamond.jp/articles/-/14428) 

〈8〉「aliquis ex vobis」掲載の邦訳から(http://beneverba.exblog.jp/15811070/) 

〈9〉8月刊行 

〈ネットからの引用は執筆時点のものです。一定時間後、読めなくなる場合があります〉 

*2011.10.27 朝刊

■知の境界超える類推の魔術 

大別すると、学者には三つのタイプがあるように思われる。研究者と教育者、そして講談師(話術の達人)。著者はこれらすべてをかねそなえており、確固とした研究にもとづいた業績を糧に、達者な話術を操って「楽しませつつ教える」ことができる逸材である。したがってその啓蒙(けいもう)力には定評があり、<学魔>の異名をいただく著者の超知性に魅了される熱狂者は数知れず。

この知の超人が長年説いているのが、本書名にも冠される「新人文感覚」である。ひらたく言えば、学際だ。従来の細分化された学問分野・領域・境界を超えて複眼的な思考で事象をとらえること。「なにを学ぶかではなく、いかに学ぶか」である。角度・位置・文脈でさまざまに異なる姿を見せる対象に虚心に驚き、それらをつなぎ、編集すること。まずは奇なる事象に驚嘆し、ついでそれら異相を結合して新しい事象を発明する。こうしたマニエリスム的飛躍と類推に満ちた技術(アート)を著者は「新人文感覚」と称す。

本書は類推の魔術と結合術によって実践された超学問=タカヤマ学のここ十五年の収穫である。知の遊歩者である著者はさまざまな領域を歩き境界を越えていく。そして見つつ読む。古今東西の小説はもちろんのこと、美術史、メディア論、オカルティズム、社会学、心理学、光学、博物学、言語学、美学、哲学、観相術、造園術などを軽妙洒脱(しゃだつ)でケレンに富み、ときには眉唾ものにして傍若無人な語り口で説いて、読者の知的好奇心を刺激してやまない。

基本的には十五年前の大著『ブック・カーニヴァル』と同趣の内容だが、今回は視覚文化論と表象論がパワーアップ。前著は「前代未聞の生前贈与『叡智(えいち)』論集」と謳(うた)われていたが、この秋にはパートII『雷神の撥(ばち)』が刊行予定。いったいどれだけの知的財産を所有しているのか。おそるべしタカヤマ・ワールド!

たかやま・ひろし  1947年生まれ。明治大教授、英文学。著書に『メデューサの知』『テクスト世紀末』『表象の芸術工学』など。

〈時の回廊〉見田宗介「現代社会の理論」 幸福な社会、道筋示した

資源の大量採取や他民族からの収奪に歯止めをかけなければ人類に明るい未来はない。だが自由な社会を手放すことなくそれは可能か。この難題に力強く「イエス」と答えたのが、見田宗介『現代社会の理論』(岩波新書、1996年)だった。冷戦後に提示され、「美しい」とさえ評された論考の原点は、冷戦下の“東側”にあった。

74年に僕は欧州を放浪しました。

社会主義国・チェコスロバキア(当時)のプラハで学生たちと夜を徹して話し合う機会がありました。印象的だったのは、彼らが“西側”の自由な世界に強くあこがれていたことでした。

当時、日本で“現代社会の理論”と言えば、「今の社会は資本主義だから悪い」という前提に立つものが主流でした。けれどプラハの若者たちはその資本主義にあこがれていた。「資本主義だから」「社会主義だから」という前提を取っ払ってみよう、と思いました。「どういう名であれ、人々が現実に幸福な社会ならばいい」とまずは考えてみよう、と思ったのです。

人間が歴史の中で作ってきた社会を考えてみると、当時の資本主義社会は他の社会よりましと思えた。では、なぜうまく行くのか。理論的にきちんと考えた方がいいと思ったのが『現代社会の理論』のモチーフです。ずいぶん時間がかかってしまいましたが。

結論は本に書いた通り、情報化と消費化の力だ、というものでした。

昔の資本主義は恐慌が定期的に来て、それを避けるには戦争で需要を生み出すしかない、ひどい社会だった。けれど20世紀後半になると、大恐慌が起きなくなる。自由な欲望に基づく消費と、デザインや広告など情報の力によって、資本主義のシステムが需要と市場を自ら創出できるように変わったからです。もちろん、資源の有限性、南北問題のような収奪構造など、課題もある。しかし消費化は本来、生産至上主義からの解放であるし、情報化は本来、脱・物質化であるから、両者を組み合わせれば解決は不可能ではない。そう本に書いたのです。この本はカラッとした科学的な議論の本にし、「生きることの意味」など現代人の精神状況の問題は積み残しました。

福島第一原発の事故で僕が驚いたのは、少し後の世論調査です。あれだけの事態でも、半数以上の人が原発を続けようと答えていた。原発に依存的な構造ができてしまっているのです。成長を続けなければ社会が成り立たないかのごとき成長依存的な社会構造、そして精神構造が根底にある。

一般に生物は、環境に適応したことで個体数が増え、続いて爆発的な増加を遂げたあと、環境の限界に直面して横ばいの安定期に入ります。そのように環境と共存する術(すべ)を持ちえた集団が、生き残る。

地球という有限な環境下での人間も同じことです。実際統計を見ても、世界人口は増え続けてはいるものの、70年ごろを境に増加率は急激に減少している。人間社会は近代という「爆発的な増加期」を経験した上で安定の局面に入ったと僕は見ます。そういう歴史の「変曲点」を通過したのに、人々はまだそのことに気づいておらず、成長に依存するシステムと心の習慣から脱していない。これが現代の矛盾です。

安定期に転じた社会で人々がアートや友情のような、資源浪費的でない幸福を楽しんでいる。それは本当にすてきな社会です。このことは『現代社会の理論』の次の展開として、現代人の孤独の問題などとともに、いま本にまとめています。(聞き手・塩倉裕)

みた・むねすけ 1937年、東京都生まれ。社会学者。東京大学名誉教授。著書『社会学入門』『まなざしの地獄』など。真木悠介名義の著書に『気流の鳴る音』などがある。

人が学問に志す、その志の初めの炎を保つこと、自分にとって、時代にとって、人間にとって、あるいは人間を含む一切の存在にとって、本質的な問題を問いつづけるために、そしてこの問題を問いつづけるということのためにだけ、あらゆる個別の学問を仕切る国境を越えつづけること、この越境する鮮烈な問題意識の内にだけ、社会学という遊牧する学問のアイデンティティは存在している
『社会学入門』(見田宗介著、岩波書店)

村上春樹カタルーニャ賞スピーチ

日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。」